桜幻 16
2007年 11月 24日
春乃が指定した場所は、華櫻の桜林。
輝く月明かりで真夜中でも明るい。
感心なことに陸海のほうが先に来ていた。
「ごきげんよう。陸海社長」
「用件を聞こうか…」
疲れた顔は緊張で強張っている。
くすくす笑いながら春乃は近づく。
「契約破棄をする決心が付いたのか聞きたくて…」
「何度も言ったはずだ。断るッ」
追い詰められているわりには強気な発言であった。
あはははははっ。
突如、春乃は腹を抱えて笑い出した。
「やーだ、本気で言っているの?」
笑いを収めるとバッグから書類を無造作に取り出した。
「陸海グループのデータ。取引先企業や個人の情報。これ、欲しい人に売ってもいいのかしら? 私はどちらでもかまわないけど?」
「君だったのか…。データを盗んだのは」
「ええ、頼んだら快く引き受けてくださったわ」
「社員をたぶらかさないで欲しいね」
「見放されているだけじゃないの? 私のせいにしないで欲しいなぁ」
データ流出は陸海グループの信用を損なうものだ。陸海が把握している限りでも大量で重要なデータが含まれている。世間に知れ渡れば株価は大暴落するであろう。グループ全体の危機である。
「これはほんの一部よ」
春乃は勝利を信じて疑わなかった。
さすがにこれだけのものを持ち出されたら、膝を屈しないわけにはいかない、それだけの威力のあるものだ。
しかし、春乃の予想を裏切って、陸海はすぐに応じなかった。
何がおかしいのか、微かに笑ってさえいる。
それに違和感を覚え、どこかで間違えたかと危惧がさざなみのように広がる。
春乃の心に呼応するかのように、風に揺れる桜の枝が唸りをあげてしなった。
「で、どうするの?」
「残念だよ。データの流出は痛いが、私にはどうにも出来ない。権限がないからね」
春乃は訝しがった。
「理事長を退任した。よって華櫻の件は私の手が離れたことになる」
「何ですって!」
思いがけない陸海の切り返しに、予定を変更しなくてはならない。
今夜でケリをつけるつもりでいたが、陸海から離れてしまったら一からやり直しだ。
陸海の時と同じ攻め方をしても時間を浪費するだけだ。効率よく、ここからチェックメートするにはどうしたらいいのだろう。
春乃はフル回転で作戦を練り直す。
「さて、どうする?」
嘲笑うように陸海が聞いてくる。
それが春乃の癇に障る。
いっそうのこと常識を捨ててしまおうかと春乃は思った。今までまどろっこしくても常識の範囲で攻めを展開していたが、それらを捨ててしまおうかと。
だか、それは最後の手段だ。他に打つ手がなかったら、それで華櫻の土地を取り戻す。
「さぁ、どうする?」
追い詰めるように陸海が聞いてくる。
春乃は静かに対峙していた。
風は梢を打ち鳴らし二人を包んでいたが、侵入者の音も運んできた。
春乃の方が先に気づき、校舎の方へと視線を向けた。それにつられて陸海が見やると、一人の女性が姿を現した。
春乃と瓜二つの春菜だ。
陸海ほどではないが、春菜も疲れた顔していた。それは儚げな雰囲気であった。
「春乃。もう、止めてちょうだい…」
声を絞り出し、娘に懇願した。
「馬鹿なこと言わないで。桜城家は華櫻の土地を守らなくてはならない」
ゆるぎない声に、春菜は悲しそうな目を向けた。
その眼差しは、春乃の心に届かない。
かえって桜城家の在り方を理解していないことに腹立たしさが募り、同じ桜城家の血を引いていることに疑問を感じた。
「いいのよ。私の代までで十分よ。春乃は自由にしていいの」
「お母さまは全然わかっていないのね」
「わかってないのは春乃の方だわ。悪しき習慣だって気づいていない…」
春乃は大きなため息をついた。
わかっていたとはいえは、あきれ返って言葉が出てこない。常々、娘の言動から目を逸らしている節はあったが、ここまで過去の言動を否定されていたのかと、これが母親なのかと思うと、今回の件も気をつかって常識的な範囲で進めていたのが阿保らしく思える。無駄な努力をしたものだ。
「お母さまには悪しき習慣に見えるのでしょうけど、私には日常なのよ。気づいていないとかの問題じゃないの。私が見ているもの、聞こえているものが、周りに見えないし聞こえないから気づかっているのよ。それに気づいていないのが、お母さま。ホント、桜城家の直系なのに素質がないなんて、お祖母さまもさぞかし苦労したことでしょうね」
春乃と春菜では見ているものが違う、聞いているものが違う。だから同じ桜城家の血を引きながら理解しあえないのかもしれない。
祖母の判断は正しかったと、春乃はつくづく思った。
「違うの! 縛られて欲しくないの!」
「何が違うのかしら? もっとも何を言ったところで、見えているものが違うから平行線のままでしょうね。それも気づかなくて?」
「確かに私には見えないし聞こえないわ。でも、貴女の母親なの。貴女のことを大切に思っているの。貴女には幸せになって欲しいの。貴女の子供にも、孫にも、幸せになって欲しい。誰かが断ち切らないと子孫代々、縛られ続ける。桜城家にも桜塚家にも縛られて欲しくない。春乃には、いにしえに縛られず、自由に生きて欲しい!」
「全然わかっていないのね。お母さまはいつもそうよ。私の言葉を信じたことなかったわ。いつも否定していた。いつまでもそんなこと言う私を気味悪がっていた。だから、近寄らなかった。私のことを守ってくれなかった。守ってくれたのは、いつも桜よ。お母さまじゃないわ。たとえ見えなくなっても、聞こえなくなっても、私を守ってくれた桜たちを、私は守る!」
春乃は宣言すると陸海に近づいた。
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輝く月明かりで真夜中でも明るい。
感心なことに陸海のほうが先に来ていた。
「ごきげんよう。陸海社長」
「用件を聞こうか…」
疲れた顔は緊張で強張っている。
くすくす笑いながら春乃は近づく。
「契約破棄をする決心が付いたのか聞きたくて…」
「何度も言ったはずだ。断るッ」
追い詰められているわりには強気な発言であった。
あはははははっ。
突如、春乃は腹を抱えて笑い出した。
「やーだ、本気で言っているの?」
笑いを収めるとバッグから書類を無造作に取り出した。
「陸海グループのデータ。取引先企業や個人の情報。これ、欲しい人に売ってもいいのかしら? 私はどちらでもかまわないけど?」
「君だったのか…。データを盗んだのは」
「ええ、頼んだら快く引き受けてくださったわ」
「社員をたぶらかさないで欲しいね」
「見放されているだけじゃないの? 私のせいにしないで欲しいなぁ」
データ流出は陸海グループの信用を損なうものだ。陸海が把握している限りでも大量で重要なデータが含まれている。世間に知れ渡れば株価は大暴落するであろう。グループ全体の危機である。
「これはほんの一部よ」
春乃は勝利を信じて疑わなかった。
さすがにこれだけのものを持ち出されたら、膝を屈しないわけにはいかない、それだけの威力のあるものだ。
しかし、春乃の予想を裏切って、陸海はすぐに応じなかった。
何がおかしいのか、微かに笑ってさえいる。
それに違和感を覚え、どこかで間違えたかと危惧がさざなみのように広がる。
春乃の心に呼応するかのように、風に揺れる桜の枝が唸りをあげてしなった。
「で、どうするの?」
「残念だよ。データの流出は痛いが、私にはどうにも出来ない。権限がないからね」
春乃は訝しがった。
「理事長を退任した。よって華櫻の件は私の手が離れたことになる」
「何ですって!」
思いがけない陸海の切り返しに、予定を変更しなくてはならない。
今夜でケリをつけるつもりでいたが、陸海から離れてしまったら一からやり直しだ。
陸海の時と同じ攻め方をしても時間を浪費するだけだ。効率よく、ここからチェックメートするにはどうしたらいいのだろう。
春乃はフル回転で作戦を練り直す。
「さて、どうする?」
嘲笑うように陸海が聞いてくる。
それが春乃の癇に障る。
いっそうのこと常識を捨ててしまおうかと春乃は思った。今までまどろっこしくても常識の範囲で攻めを展開していたが、それらを捨ててしまおうかと。
だか、それは最後の手段だ。他に打つ手がなかったら、それで華櫻の土地を取り戻す。
「さぁ、どうする?」
追い詰めるように陸海が聞いてくる。
春乃は静かに対峙していた。
風は梢を打ち鳴らし二人を包んでいたが、侵入者の音も運んできた。
春乃の方が先に気づき、校舎の方へと視線を向けた。それにつられて陸海が見やると、一人の女性が姿を現した。
春乃と瓜二つの春菜だ。
陸海ほどではないが、春菜も疲れた顔していた。それは儚げな雰囲気であった。
「春乃。もう、止めてちょうだい…」
声を絞り出し、娘に懇願した。
「馬鹿なこと言わないで。桜城家は華櫻の土地を守らなくてはならない」
ゆるぎない声に、春菜は悲しそうな目を向けた。
その眼差しは、春乃の心に届かない。
かえって桜城家の在り方を理解していないことに腹立たしさが募り、同じ桜城家の血を引いていることに疑問を感じた。
「いいのよ。私の代までで十分よ。春乃は自由にしていいの」
「お母さまは全然わかっていないのね」
「わかってないのは春乃の方だわ。悪しき習慣だって気づいていない…」
春乃は大きなため息をついた。
わかっていたとはいえは、あきれ返って言葉が出てこない。常々、娘の言動から目を逸らしている節はあったが、ここまで過去の言動を否定されていたのかと、これが母親なのかと思うと、今回の件も気をつかって常識的な範囲で進めていたのが阿保らしく思える。無駄な努力をしたものだ。
「お母さまには悪しき習慣に見えるのでしょうけど、私には日常なのよ。気づいていないとかの問題じゃないの。私が見ているもの、聞こえているものが、周りに見えないし聞こえないから気づかっているのよ。それに気づいていないのが、お母さま。ホント、桜城家の直系なのに素質がないなんて、お祖母さまもさぞかし苦労したことでしょうね」
春乃と春菜では見ているものが違う、聞いているものが違う。だから同じ桜城家の血を引きながら理解しあえないのかもしれない。
祖母の判断は正しかったと、春乃はつくづく思った。
「違うの! 縛られて欲しくないの!」
「何が違うのかしら? もっとも何を言ったところで、見えているものが違うから平行線のままでしょうね。それも気づかなくて?」
「確かに私には見えないし聞こえないわ。でも、貴女の母親なの。貴女のことを大切に思っているの。貴女には幸せになって欲しいの。貴女の子供にも、孫にも、幸せになって欲しい。誰かが断ち切らないと子孫代々、縛られ続ける。桜城家にも桜塚家にも縛られて欲しくない。春乃には、いにしえに縛られず、自由に生きて欲しい!」
「全然わかっていないのね。お母さまはいつもそうよ。私の言葉を信じたことなかったわ。いつも否定していた。いつまでもそんなこと言う私を気味悪がっていた。だから、近寄らなかった。私のことを守ってくれなかった。守ってくれたのは、いつも桜よ。お母さまじゃないわ。たとえ見えなくなっても、聞こえなくなっても、私を守ってくれた桜たちを、私は守る!」
春乃は宣言すると陸海に近づいた。
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by 1000megumi
| 2007-11-24 17:26
| 小説 桜幻(完結)